鈴蘭日記

自閉症で重度知的障がい者の息子のお話です。

よろしくお願いします。

話題提供

【話題提供】

息子の成長と母の着目点 第三分科会にて話題提供させていただきます。

奇遇にもちょうど息子は四月で二十歳を迎えました。

この節目の二十年を振り返るとともに、私が社会の中でどうその年齢に相応しく息子を導き、また息子もそれにどう応えて来たかをお話させていただきたいと思います。

最初に皆さんに期待するような話をして、後から不安にさせてはいけませんので、前半は苦労したことをお話します。



資料の息子の二十年史の下の部分をご覧ください。

とにかく息子の子育ての半分は「咳パニック」との戦いでした。

人の咳、くしゃみ、或いは鼻をすするといった音が本当に嫌いらしいです。

始めの頃はどんな人の咳にもパニックになって大変でした。

私もお父さんも神経がちょっとおかしくなるような時期もあって、今でも息子がそばにいない時も人の咳でびくつくことがよくあります。

中学部になって、ある特定な苦手な人の咳だけにパニックになるようになりました。

私もその特定の人の中の一人です。

しばらくは楽な時期もあったのですが、中3の修学旅行時期からまたピリピリするようになりました。

中3の3学期は最悪で、バスの中で暴れて1週間ほど先生が代わる代わるバスに乗ることもありました。

それでも先生が、「何か不安なものがあって、心の中でそれが沸々としているので、咳を切っ掛けに一気に爆発するのでしょう。」と言って下さり、何とか持ちこたえていました。

それでも、高等部に進学してへしない女先生が担任になったものですから、限界を感じててんかんを診てもらっている医師に相談し、安定剤を服用するようになりました。

「本当に効いているのかな?」と思って、6年間飲んでいたてんかんの薬を止めるのと同時に安定剤も一時止めたことがあるのです。

でも、やっぱりダメでクラスメイトに食って掛かるような状態が見られたので、再度服用するようになりました。

薬を飲んでいる今でも咳パニックを克服したわけではありません。

相変わらず耳を塞いで歩きますし、家の中では私とは絶対一緒にはいません。

別の部屋でジグソーパズルをしたり、冬にはアンデミルミルでマフラーを編んだりして過ごしております。

それでも、毎日作業所には行けてますし、家族で出掛ける分にはパニックにはなっていませんので、これで良いのかなあと思っています。

とまあ、ここまでがマイナス面と言いますか、苦労してきた点であります。

余談ですが、私は息子にはとても感謝しています。

息子が長年暴れてくれたおかげで、私は重度の本人さんたちが大好きで、市の育成会でエアロダンス部を創設したのも私なりに重度の方にスポットを当てたいと思ったからに他なりません。



さて、気分を一新して、息子のプラスの面を探っていきます。

咳パニックはあるものの息子は様々な経験を積み重ねてきました。

やがては社会に出ていく身。 経験無くして社会参加などありえないと常日頃から考えてきました。

「普通に生きる」と誰もが簡単に口にしますが、普通に生きるためにはそれこそ二十年間の息子の地道な努力が無ければならなかったのです。

私は息子がどんな経験をしたかよりも、その経験に寄ってどう行動出来るようになったかにいつも注目しています。

息子の行動を見ていますと、スーパーの駐車場では左右の安全を確認しているんだか、どうなんだか、猪突猛進で店内に入っていく息子ですが、買い物を終えて駐車場に戻ってきた時に隣の車の方と一緒になることがあります。

そうすると息子は隣の車の方がドアを開けて降りるまで待っているのです。

こうしたさりげない事も社会人のマナーとしてはとても大切で、私をホッとさせるものです。

急に身に着いたはずはありません。

恐らく地元の保育所に通っていた時分から培われたマナーでしょう。

導いて下さった保育所の先生方には今でも頭が上がりません。

他にも色々発見させられることがあります。

息子の20年史にわざわざナゴヤドームに行ったことを入れていますのも、4万人の大観衆の中でも誰も息子に重度の知的障がいがあるとは感じさせない振る舞いをしているからなのです。

映画館やコンサート会場でもそうですが、野球場は座席が狭く行き来が不便なところです。

ある時、真ん中の座席に座った人が売り子さんにアイスクリームを頼んだのです。

順番にそのアイスクリームを買った本人まで手渡ししていくのですが、突然息子がガーッとアイスクリームを奪ったように見えたのです。

「あら、しまった!」と私は思ったのですが、次の瞬間ちゃんと横の人に渡していました。

こうした世間の人にはどうでも良いことでも、私は「素晴らしいな☆良かったな☆」と思うのです。

また、様々な出会いも大切です。

地元の保育所に通っている時は、息子にスポーツが出来るようになるとは考えてもみませんでした。

特にゲレンデで上手に人を除けながら滑るスキーは圧巻で、当時息子にスキーを教えてくださったしらとり支援学校の先生方には本当に感謝、感謝です。

地元に初めて出来た富山型デイサービス事業所も息子の人生を大きく変えました。

息子は今、月火木金はB型事業所の「〇〇〇〇」へ通い、水土は富山型の「〇〇〇〇家」へ通っています。

こうした複数のサービスを利用して、生活に厚みを持たせる本人さんが昨今増えてきました。

箸入れや電子部品の作業だけでももちろん構わないのですが、富山型デイの利用者さんと花見をしたり、一緒に昼食を食べたりするのも素敵なことです。

本人さんたちの生活スタイルも変わりつつあるなあと実感しています。

私の周りの保護者の中には、「うちの子には無理!」と最初からさじを投げている方が多いような気がします。

或いは「うちのプー助が・・。プー太郎が・・。」とお母さん自身で差別発言している方もいます。

「成人式や選挙に行くなんて・・。」と投げやりの方もたくさんいます。

何故そう決めつけてしまうのでしょう?

本当にもう手遅れなのでしょうか?

今日はせっかく遠いところを先生に来ていただきました。

先生のアドバイスで少しでもたくさんのご家族がごく普通にごく当たり前に社会参加出来るようになっていただきたいと願っています。

障がい者は社会の中でこそ鍛えられていきます。

今までたくさんの入所施設を見学してきましたが、籠の中の鳥として過ごすより、この世に生を受けた以上少しでも社会の一員として生きて欲しいし、私たちも育成会としてその手助けをしなくてはいけないと思います。

今日はちょうどこの隣の体育館で本人たちのレクリェーションが行われています。

どの親御さんも安心して我が子を参加させられるよう、障がい者本人の成長を期待したいと思います。

以上です。


ここで誤解がないように・・。

ナゴヤドームで誰も息子のことを障がい者だと気付かなければそれで良いのかというとそうではなく、障がいがあってもごく自然に振る舞えるような人であって欲しいと私は考えています。

また、スキーも上手ければそれで良いのかというと決してそのようなことを言っているのではありません。

重度の知的障がい者であっても自分で判断する力は生まれながらに備わっているはずです。

様々な経験を繰り返すことによって、そうした力を伸ばしていって欲しいと私は願っています。

そのようなことを育成会県大会の分科会で述べようと思っています。